書 杭迫柏樹の世界展

2016年09月05日 16:12 カテゴリ:ニュース・展覧会情報

特別インタビュー 杭迫柏樹
—書を始めたきっかけ~京都学芸大時代について

 
杭迫 私は家族が12人と大勢で、小学校へ上がるときは競書誌で学習し、親や兄弟と競い合っていました。高校3年時、静岡県の席書大会 (会場で書いて競う大会) で県知事賞をいただきました。平安の三筆、伝・橘逸勢 (たちばなのはやなり) の「伊都内親王願文」の臨書です。もう嬉しくなって、それで「よし、書をもっとがんばろう」という気になったんですね。 その頃弓道も習っていましたので、書道と弓道の両方できるのは京都学芸大 (現京都教育大) だと思い、また京都が良かったのは美術科の中に書の専攻コースがあり、美術としての書という扱いだったからです。京都学芸大での指導は大河内鳧東 (ふとう) 先生と、安達嶽南先生です。特に大河内先生は、自分の目を信じないようなやつは大学へ来ても駄目だと言われました。これが僕にとっては大変よかったです。そのお陰で力を付けたように思います。もし先生に付いていたら、先生一色にDNAができてしまったと思うんです。
 
 
—師・村上三島先生とのこと
 
杭迫 大卒後に付いた先生が村上三島 (さんとう) 先生です。三島先生は「俺は灯台みたいなものだから、間違った時は言うけど、そうじゃなかったら自分で好きなようにやれ」と言って下さいました。三島流の真似をしろと言われたら多分辞めていたでしょう。京都には村上門下に古谷蒼韻、山内観、中島晧象ら先輩方、仲間に吉川蕉仙、宮崎葵光等がいます。皆自分の書をつくり上げる姿勢でやってきました。あれは三島先生が偉かったからです。その古谷先生からは最も感化を受けました。世間話は一切しない、書が悪かったら一切認めないという先生です。
 
 
—33歳で教師を辞し、書一本の道へ
 
杭迫 始めから書家として生きることが本望だったのです。でもかなり貧乏しましたね。日展初入選のときなど、東京へ行く旅費がないのです。時計とかお金になるものを質屋に入れて旅費を工面しました。長興会という村上門下の社中が厳しかったのです。ひとつの作品を書くのに、画仙紙が10反 (1000枚) ぐらいしか書けないやつは怠け者だと相手にしてくれませんでした。僕はせいぜい1.5反か2反です。ですから勉強家の部類には入らないわけです。でもあの頃はほとんど紙代に費やされました。それで子どもも一緒に家族総出で朝から墨を磨っていました。いい思い出です。そして次の出費は書籍代ですね。それがないと専門家としてやっていけませんから。これまで中国に68回訪問しましたが、中国では本や文房具に欲しいものがいっぱいあるのです。これを買い渋るようではだめだと思い、それで貧乏したんですね。
 
「換鵞」「天の海に」
—先生の実践法にある「目習い・手習い・鑑賞法」とは
 
杭迫 書の場合はいかに深く見るかが大事で、手習いよりは目習いの方が先だと思います。書家同士では、上手・下手という批評はまずしません。「あいつ、いい目をしているな」という褒め方です。その人の目が高ければ、必ず腕がついてくる。目が低かったら自己満足で終わってしまいます。
 
 
—目標とした書
 
杭迫 高校時代までは、上手いという書、技巧的な書に憧れました。一番技巧的だと思う書が (前述) 伝・橘逸勢「伊都内親王願文」で、中国の書では、残っている褚遂良 (ちょすいりょう) の肉筆書が素晴らしいと思いました。大学からは反動かも知れないですけど、素朴な書が好きでした。一番好きだったのが伝・陸機の「平復帖」。何の飾りもない、次の文字へ行く連綿の意志もない、これが好きで好きで。大学4年間を無駄にするくらいこれをやりましたね。そして大学を卒業する頃からは蘇東坡 (そとうば) ばかりでした。存在感があって、技巧に走らない、単調ですが格が勝負という字です。今考えると、技巧的な書をずっとやっていたらもっと上手くなったと思うのです。でも北宋という時代の書が僕は好きだということ。だから最初は蘇東坡から入ったのですが、蘇東坡、米芾 (べいふつ)、黄山谷 (こうさんこく) という北宋の三大家が今でも一番好きですね。それは技巧に走らないこと、精神性が高いという意味でね。
 
 
—朝4時起床の日課や、趣味について
 
杭迫 朝型なものですから、夜寝るのはさまざまですけど、起きる時間は一緒です。電話が掛からない内に朝ごはんまでが書の勉強と決めています。そこではほとんど臨書です。
趣味はお茶の稽古です。お茶が書道とよく合うなと思っているんです。力の使い方とか気の配り方、呼吸とか。一本の線を引くときも、中国の古典を読むと「始めゆっくり、中速く、最後ゆっくり」と書いてあります。そして最後に進行方向が見えるのは安っぽい書だと。進行方向が見えるのは器用で書いているので安っぽく見えるというね。僕もその事は一番思っていることです。日比野五鳳先生は、仮名ですが書き終わって次へ続くときでも、行く先が見えることは絶対にないです。
 
「悠・創・遊」

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