【団体】 独立美術協会展70回記念座談会 (「新美術新聞」再録) 〈1〉

2012年10月09日 17:38 カテゴリ:その他ページ

 

 

 

受け継がれる“独立”の志

 

第70回記念独立展 奥谷博「日出処」150号

「茲ニ我々ハ各々ノ既成團體ヨリ絶縁シ独立美術協会ヲ組織ス、以ッテ新時代ノ美術ヲ確立セム事ヲ期ス」(「独立宣言」より)。もっとも若い三岸好太郎(28歳)から最年長の鈴木保徳(39歳)まで、平均年齢35歳の13名の青年画家たちが、1930年11月1日、東京曰比谷の山水楼で独立宣言を発し、在野精神を礎に新たなる創造の大海へ船出をした。「ドラが鳴って、スクリューは十三の急回転を始めた。ぐんぐん前身」。翌31年1月に独立美術協会の第1回展が東京府美術館で開かれた。大戦による1回の中止、戦後間もなく46年の自由出品の年を除いて、毎年公募展を開催し、今年で70回の節目を迎える。本紙では、現在独立美術協会の中枢を担う、奥谷博、絹谷幸二、馬越陽子、大津英敏の4氏に、美術評論家宝木範義氏が、独立展へ出品した動機とその魅力、これからの独立展のあり方、創立当時の意気軒昂な志しの継承についてたずねた。

 

 

 

独立展出品の動機

 

宝木 団体展を続けること自体が非常に難しいのに、70年間も充実した内容で独立美術協会は維持されています。会員の方々の努力は大変大きなものがあると思います。今日はそうした点も踏まえて独立美術協会の魅力、現在と将来といった辺りをうかがいたいと思います。先ず、独立展に出品された動機、どういう先生がいらして、その先生のどこに魅力を感じて出品するようになったかを奥谷先生から。

 

奥谷博氏(おくたに・ひろし) 1934年高知県生まれ。58年独立展初入選、66年会員となる。日本藝術院会員。

奥谷 私が独立美術協会に出品した動機の一つには、東京芸大で林武先生の教室に5年もの間ついていたということがあります。当時は、伊藤廉先生の教室だと国画会、小磯良平先生の教室だと新制作に出すといった風潮があったようです。ところが、林先生に公募展には出すなと言われたのです。ご自分たちで創立した独立美術協会なのですが、それではどうしたらいいですか、と訊ねたら、「個展でやっていきなさい」と。

今、考えてみると理解できるのですが当時はよくわかりませんでした。公募展に出すと、純粋に芸術的なものを求める以外に、よく目立つとか、賞とか不純なものを追うようになってしまう、そういう方向は違うということだと思いますが、結局出品しました。そうしたら偶然にも高畠達四郎先生が、私の作品を当時の『独立クロニクル』に有望な新人ということで写真付きで載せてくださったのです。それを林先生が見られて、審査員をしていた、針生鎮郎さんや松本英一郎さんに相談しろと言われたのです。針生さんから、絵を見せるようにといわれたのですが、「入選したら見て下さい」と答えて見せませんでした。その翌年は落選でした。

 

宝木 林先生はよくお弟子さんに独立には出すなとおっしゃったようですね。林先生はもちろん非常に魅力のある方だけれど、独立美術協会という団体の活動そのものにも共感を持たないと、出品に踏み切れなかったのではないですか、そのへんはいかがですか。

 

奥谷 展覧会に活気があって、何か引き入れる魅力のある作家が多いと感じていましたから、純粋に独立展になぜ出品するかというようなことはあまり考えなかったですね。結局公募団体展というものは、「独立の自分」ではなくて「自分があって、個の集まりがあっての独立」だと思うので、その中で自分を磨いていけばいいと思ったのです。

ところが当初は非常に惨めな思いをしました。今も脳裏から離れないのですが、初入選の時、1室か2室かその辺にあるのではないかと思っていたのですが行けども行けどもないのです。やっと2階の一番奥の端の二段掛けの上にあったのを見つけました。一生懸命描いた仕事がなぜこんなに小さくて惨めなのだろうと思いました。何回も何回も打ちのめされて、打たれ強くなりましたね。

 

 

中学3年で初出品

 

宝木 元気のいい感じというのは非常に大事だと思います。私も学生時代から東京都美術館へ行って、独立展や新制作展を見ていました。他の団体はどちらかというとスマートで、都会的でしたが、独立だけはエネルギッシュで活動的な点が際立って印象的でした。それが今までこうして受け継がれている大きな基本的なパターンを形成してきたような気がします。絹谷先生はいかがですか。

 

絹谷幸二氏(きぬたに・こうじ) 1943年奈良県生まれ。66年独立展初入選、68年会員となる。日本藝術院会員。

絹谷 私の場合は、小学生の頃から油絵を描いていまして、当時の美術雑誌で、海老原喜之助先生の「雨」とか、鳥海青児先生の「段々畠」や林先生の「梳る女」など、私の好きな絵がすべて独立の先生だったのです。当時姉が、光風会の奥山先生から油絵を習っていましたが、私が油絵の手ほどきを受けたのは、家の前におられた白日会の中沢弘光先生です。

実は、中学3年の時に、100号の抽象画を3点独立に出品しているのです。当時流行していた壁派風の抽象画ですが、見事に落選しました。

私にとって本当に身体にフィットしてくるのは独立の先生の絵ばかりだったのです。高校生になった時に倉敷の大原美術館に林先生の「梳る女」を見に行きました。本当にその絵だけを見に行ったのです。それくらい好きでした。

ですから独立に出そうというのは、芸大に入る前に何の疑いもなく決めていたのです。林先生の“おっかけ”みたいに嬉しくて仕方なかったのですが、先生は、私が3年の時に定年でお辞めになった。それで当時助手をしていた林敬二先生に今後のことをきいたら、林先生が小磯先生を勧めておられるということだったので、小磯先生のところへ行ったのです。

 

宝木 当時の芸大は、小磯さん、林さん、伊藤廉さん。それぞれ新制作、独立、国画会、それにモダンアートの山口薫さんと、団体展を背負う個性的な先生がいらしたのですが、それでもなお独立へ、と。独立の生の良さとはどこからきているのでしょうか。

 

第70回記念独立展 絹谷幸二「天祥大地」150号

絹谷 時代の皮を剥ぐというか、当時の独立の先生たちの作品は、一般の方から見たら上手だと言われるような絵ではないのですが、本筋を見つめるとここに突き当たるのです。

林先生の十和田湖の赤い枝なども、普通の人から見ればなんだこれは、という感じです。白樺の木ですから赤いはずはありません。そういう絵にものすごい魅力を感じ、明日を感じたのです。鳥海先生の「石をかつぐ」という作品でも、普通には重苦しい絵にしか見えないと思います。ところがその作品の力というのはすごい。これはよほど絵画的に、ある段階を踏んでいないとそうはならないのです。

ですから私にとっては、一人の先生によるのではなく、創立会員の先生全員が同じように琴線に響いてくるのです。直感的なものですね。

 

 

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