[寄稿]―ガイガイ―宮崎進展:柏木智雄(横浜美術館主席学芸員)

2015年11月25日 13:43 カテゴリ:最新のニュース

 

歌え、もはや語るな―「ガイガイ 宮崎進展」によせて

 

 

けれん味もなく無造作に佇立し、ときに身をよじり躍動し何かを発語するかのような身体。それらが含まれ、それらによって形作られる宮崎進の作品群は、私たちに「諦念」「畏怖」「痛苦」「歓喜」「絶望」「希望」といった相反する情動を喚起する。

 

モダニスムが、カント的な自己批判に基づく自己限定化であり、絵画や彫刻が、他の諸芸術の効果を排除しあって自らの純化を図ったとするならば、宮崎進の絵画や彫刻は、このモダニスムの系譜には容易に回収されない。むしろ、宮崎進は、モダニスムが自己批判による自己限定・純粋還元のはてに遺棄したものごとにこそ、表現の核を宿命的に見出した作家のひとりである。

 

70年前、終戦と同時にシベリアに連行されおよそ4年に及ぶ抑留を体験した宮崎にとって、20代の人格形成期を領した悪夢のごとき戦時体験の本質は、叙事的な記述に回収されるものではなかっただろう。殺戮や殲滅、生への執着や渇望、狂気、生と死の極限的な空隙でのみ感得される微かな希望や濃密なよろこび。振幅の大きい苛烈極まる体験は、あらゆる発語を無意味にする。宮崎が帰国後手掛がけた北日本の風物や旅芸人の世界は、不断に立ち返らざるを得ない体験の記憶の暗喩であり、その表現は、宮崎進固有の仕方で直接的にそれを証言することへの留保でもあっただろう。

 

宮崎進が、この留保・滞留から果敢に踏み出し表現の直接性を獲得するのに40年近い内省と省察を必要とした。その橋渡しをしたのが、シベリアの収容所(ラーゲリ)でも使用していた麻布(ドンゴロス)であった。麻布は基底材ではない。麻布は作品の内部(エルゴン)と外部(パレルガ)の境界を確定する要素ではない。麻布は、宮崎進が、叙事的証言の手前で滞留した体験の真実と接合する。

 

こうして宮崎進によって作り出された身体像。身体は必然的に「ここに」在ると同時に、また必然的に「いま」存在するものであれば、身体はけっして「過去」とはなり得ないと書いたのはメルロ=ポンティであった。宮崎の作る身体像には、体験の「いま」の本質が憑依し凍結し血肉化している。故に、私たちはその作品からえも言われぬ情動を喚起されるのであり、だからこそ、作品が普遍性を持ち得るのだ。

 

 

 

 

「新美術新聞」11月21日号1面より

【会期】2015年11月18日(水)~12月7日(月)

【会場】髙島屋日本橋店6階美術画廊X(東京都中央区日本橋2-4-1)

【TEL】03‐3211-4111(代表)

【休廊】無休

【開廊】10:00~20:00

【料金】無料

【関連リンク】髙島屋日本橋店

 


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