富井玲子 [現在通信 From NEW YORK] :〈大阪〉のお勉強

2022年06月27日 10:00 カテゴリ:エッセイ

 

小出楢重《街景》1925年 大阪中之島美術館蔵

小出楢重《街景》1925年 大阪中之島美術館蔵

 

私は生粋の大阪人だ。大阪生まれの大阪育ち、大学は大阪大学で理学部+文学部と大欲張り。東京を迂回してNYに行きついた。

 

もっとも大阪を熟知しているとは言い難い。唯一〈大阪〉が役に立っているのは、地元のスター具体が、世界美術史のヒーローでもあることだろうか。ただし、ここ数年は帰阪の度に〈大阪〉のお勉強を心がけてきた。

 

2002年設立の大阪大学総合学術博物館は愛校心と故郷の誇りを二重に満たしてくれる。5月末に訪れた時は「モダン中之島コレクション―“大大阪”時代の文化芸術発信センター」なる特別展が開催されていた(~7月30日)。

 

1925年の市域拡大で東京市を抜いて日本最大の都市となり、世界でも第六位!なんとも誇らしい「大大阪」の呼称には違いない。

 

その中之島には(悲願の!)大阪中之島美術館が、途方もなく長かった準備期間を経て遂に!遂に!今春オープンした!

 

具体の重要資料アーカイブが数多く集められ、リーダー吉原治良の重要作品を収蔵し、62年以降はグループの本拠となったグタイピナコテカのつい目と鼻の先に建てられた美術館だ。今秋は隣接の国立国際美術館と共催で大〈具体〉展が予定されているらしい。

 

こうした華やかさとは裏腹に大阪人としては、中之島がグローバルな文化発信センターになれるのか、気の揉めること甚だしい。

 

だが、空ばかり見ていると往々にして足元をすくわれる。中之島に所在する同館が、大阪学にもすぐれた施設でありうることは、私の頭からすっぽり抜け落ちていた。

 

だからモジリアニ展(~7月18日)を見た後で「みんなのまち 大阪の肖像」展(~10月2日)に足を踏み入れた私は、思いがけず〈大阪〉のお勉強の場を見出した。

 

 吉原治良《雪山》1940年 大阪中之島美術館蔵 筆者撮影

吉原治良《雪山》1940年 大阪中之島美術館蔵 筆者撮影

 

しかも、美術と大阪の歴史が密接に関係している。川瀬巴水や織田一磨の版画による道頓堀風景もよいけれど、洋画の国枝金三や松井正の描いた信濃橋の新しい都会風景は格別だ。何より小出楢重が国枝や黒田重太郎と1924年に設立した信濃橋洋画研究所が、どれほどモダンな企図だったか、ずばり立地条件が語っている。翌年には中之島に朝日会館が「文化の殿堂」としてオープンし、信濃橋洋画研究所が全関西洋画展をここで立ち上げる。さらに31年に朝日会館に東隣して建設された朝日ビルディングに同研究所は移転、中之島洋画研究所と改名している。

 

同美術館のご先祖様となる動向だ。朝日会館で個展を開いた若い作家たちには、魚の静物画を発表した吉原治良もいた。こうして中之島界隈の地図の上に歴史が立体的に浮かび上がってくる。御当地美術史の醍醐味だ。

 

吉原で見ていくと、紀元二千六百年奉祝美術展に黒田重太郎が出品した、いかにも洋画の牡丹と、吉原の出品した抽象化されたヘンテコな雪山が衝撃的な対比を作る。

 

その一方で「護レ銃後ノ展覧会」のような戦時下のポスターが並んだ後に突然出てくる吉原の《防空演習》は擬似リアリズムの大作で、奇妙な違和感がなんとも複雑だ。

 

ローカル事情と一蹴するなかれ。ローカルの足腰が弱いとグローバルの踏ん張りがきかないのだから。 

 

「みんなのまち 大阪の肖像」展の展示風景。「護レ銃後ノ展覧会」(左)など戦時下のポスターが並ぶ。筆者撮影

「みんなのまち 大阪の肖像」展の展示風景。「護レ銃後ノ展覧会」(左)など戦時下のポスターが並ぶ。筆者撮影

 

吉原治良《防空演習》1944–45年頃 大阪中之島美術館蔵 筆者撮影

吉原治良《防空演習》1944–45年頃 大阪中之島美術館蔵 筆者撮影

 

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