作家・仏文学者 堀江敏幸さんと行く大川美術館 ~ 一人の男の情熱が生んだ美の殿堂 ~

2018年02月26日 10:00 カテゴリ:その他ページ

 

 

― 現在開催されているテーマ展示「花の饗宴」では、藤島武二や熊谷守一、三岸節子などの洋画に、上村松園、川合玉堂、奥村土牛、松尾敏男らの日本画まで花を画題とした多彩な作品が展示されています。これらもすべて大川さんが蒐集した作品なのですか?

 

田中 実はこれ、大川さんと大川さんの従兄弟でパイオニアの創業者である松本望さん夫妻の寄贈コレクションから作品を出しているんです。特に意図して展示したわけではないですが、飾り付けの際にそれぞれのコレクションがすっぱりと別れる展示となってしまった。面白いでしょう?

 

堀江 全然違いますね。大川さんのコレクションがある種の重みを持っているのに対して、松本さんのコレクションは湿り気が無いように思えます。まんべんなく、偏りがない。おのずとコレクターの色が現れてくるものなのですね。

 

 

― こうして他のコレクターのものと並ぶと、大川さんの眼のユニークさがよく分かります。

 

田中 大川さんは、いわゆる美術マーケットで高値で扱われる作品をあえて買わなかったそうです。自分の眼に絶対の自信があったのでしょう。ここのコレクションも松本竣介と野田英夫という2人の作品を軸に、それぞれの「人脈」からコレクションが派生して出来ているすごくプライベートなものです。作風や時代は幅広いのですが、一方で、思い入れのある作家の蒐集には執念ともいえる情熱を燃やしていました。松本竣介で言えば、岩手県立美術館や神奈川県立近代美術館などミュージアムピースを所蔵する館はありますが、個人コレクションでこれだけの竣介作品を持っているのはここしかありません。

 

 

 

― 大川さんと松本竣介作品の出会いは1963(昭和38)年の秋ごろだったといいます。《ニコライ堂の横の道》という作品でした。

 

田中 勤務先に来た画商さんが持ってきたのを見て、すぐに購入を決めたそうです。私はそれがとても不思議でした。まったく未知の画家であった竣介の、それもこの何とも寂しい絵をよくぽんと買おうと思ったなと。当時の日本は高度成長期に入っていく時代で大川さんも働き盛り。ビジネスの最前線で日本とアメリカを行ったり来たりしていた。「静寂の中ハッと息をのみながら引き込まれていく何かを感じた」と回想に記していますが、多忙な日々の中でこういうのを観てほっとした、癒しを感じたのかなと思います。

 

 

堀江 一見、日本の風景だとは思えないほど静かで荒涼とした画面ですね。大川さんが周囲には見せないようにしていた、抑えていたものがここにあるということなんでしょうか。雄弁で声の大きかった方と伺いましたが、コレクションにはこうした静かな印象の作品が多いというのも興味深いです。

 

田中 大川さんは松本竣介をあくまでも「静かに人間の心の中に生き続ける市井の教養人」であると言っています。こうした画家に対する理解は、本質をとらえているように思えます。だからこそこの画家は、今でも多くの人に共感を呼んで親しまれているのではないでしょうか。

 

― 堀江さんは『仰向けの言葉』で松本竣介について書かれています。彼の作品で思い入れのあるものはありますか?

 

堀江 《ニコライ堂の横の道》やこの《街》もとても好きですし、『郊外へ』が新書になったときは、竣介が1941年頃に制作した《白い建物》を表紙に使わせてもらいました。彼の絵からまた装画を選べと言われたら《煙突のある風景》や《運河風景》、《鉄橋付近》、《工場》などを挙げたいですね。代表的な青い画面も好きですが、茶系の寂びれたような作品も気に入っています。

 

― 松本竣介は、その作品だけでなく美術誌『みづゑ』での寄稿「生きてゐる画家」や自ら編集を行った『雑記帳』など、文章によっても表現した人でした。

 

田中 非常に理知的な人で、絵の人であるとともに、言葉の人だったのではないかと思います。堀江さんは竣介の文章はどう思われますか? 決して文学的ではないですよね。

 

 

堀江 そうですね、文学的ではないけれど、整理できる人だと思います。松本竣介は絵画も「線」だし、文章も「線」。竣介自身も「線は僕の気質なのだ」という言葉を残しています。展示されている葉書の文字もそうでしたが、文章を書くというよりも文字を書くのが好きだったんじゃないかな。絵の一部が伸びてきて文章になっている、あるいは文章がそのまま絵に変わっていっているような、一つの繋がりがあるように感じました。

 

田中 繋がりといえば、彼はスケッチとともに一時カメラを使っていて、写真が残っています。

 

堀江 僕も以前に東京国立近代美術館で観ました。スケッチの時に見られなかった線を補強するためなのか、絵の構図を考えながら写しているのか僕にはよく分かりませんでしたが、写真もやはり竣介なんですよね。

 

田中 そう、そうなんですよ。

 

堀江 写っている建物の場所や構図、人が入っている割合とか、絵のままなんです。写真というよりも竣介の絵をそのまま撮っているような、とても良いものでした。萩原朔太郎の写真集が前に出版されていましたけど、竣介の写真も絵ハガキや写真集にしたら売れるんじゃないかな、いかがですか(笑)。

 

 

 

 

田中 今年は松本竣介の没後70年にあたる年です。当館ではこの1年を通して、竣介にまつわる企画を中心に展覧会を開催していく予定です。また、彼のアトリエをこの展示室に再現します。アトリエにあったイーゼルやテーブル、モチーフになった壺とか、ご遺族が持っていらっしゃる500冊からの本をここで紹介したい。アトリエは失われ写真資料も少ないのですが、松本莞さんの頭の中にあるアトリエのイメージを話し合いながら形にしていきます。

 

堀江 竣介が触れた本が並ぶというのは面白いですね。

 

田中 それと、ぼくは館長に就任してから桐生の街のあちこちを歩くようにしているんです。この街は空襲にあっていないので戦前の建物が残っているし、行政もそうした文化財を意識的に残そうと努めている。竣介が描いたような、戦前の街並みがここには残っているんですよ。ぼくはこの美術館だけでなく、桐生という街全体をもっと多くの方に知ってほしいと考えています。

 

堀江 桐生の小・中学生が授業で美術館を訪ねることはあるのですか?

 

田中 年に10回ほど見学に来たり、私たちが学校に行って美術館を紹介したりしています。最近気付いたのですが、人口12万の街にしては大学に入って美術史を勉強する人が多いんですよ。話を聞くと、学芸員を目指していると。小さい頃に初めて行ったのが大川美術館だそうなんです。街に美術館があるというのは大事なんだとつくづく感じました。

 

― 東京はじめ大都市の美術館にはそれこそ年に数十、数百万人が訪れています。地方の美術館やこうした私設美術館は入場者数こそ敵わなくとも、ならではの良さ、地域における役割は間違いなくありますよね。

 

堀江 都内の美術館はレストランやミュージアムショップなど遊興施設と一緒になっていますからね。これは文学館も同じです。全国の文学館の入場者数を調べると、世田谷文学館や神奈川近代文学館など東京周辺の館が圧倒的に多い。地方は苦しい状況です。だからぼくは授業の時、よく学生にチラシを配っているんです。一人でも多く行ってほしいから、ぼくたちが行かないとまずいんだと。その点では、桐生の街で愛されているという最大の強みが大川美術館にはあるんですね。

 

 

大川栄二がのこした作品の数々に囲まれて、堀江さんと私たちはゆっくりと寛いだ時間を過ごしました。大川が亡くなって以降も、大川美術館に作品を寄贈したいという声は後を絶たないそうです。彼の美術に対する情熱はこの美術館を通じて、桐生の街にしっかりと息づいているのだと感じました。

 

毎月第1土曜日、桐生では「桐生天満宮古民具骨董市」「桐生楽市」「買場紗綾市(かいばさやいち)」が開催され多くの人で賑わいます。桐生天満宮古民具骨董市は、東京東郷神社、川越骨董市と並ぶ「関東三大骨董市」のひとつ。約80店が出店し、生活道具から古書、カメラ、陶磁器、版画、刀剣まで幅広い品ぞろえが魅力です。目抜き通り沿いにたくさんの露店が並ぶ桐生楽市や買場紗綾市もおすすめ。美術館を訪ねたあとは、ぜひ桐生の街を歩いてみてください。きっと様々な出会いがあるはずです。ちなみにこの日は、大川美術館の入館料が一律2割引。お得です。

 

 

 

 

最後に、本のご紹介です。今回登場いただいた堀江敏幸さんの新著『坂を見あげて』が2月8日、中央公論新社から発売されました。季節の移ろいと響きあう、46の随想の連なり。『正弦曲線』『戸惑う窓』に続く待望の散文集です。堀江さんならではの洗練された文章と、美しい文字組み。装幀は間村俊一さん、装画は堀江栞さんが手掛けています。

 

 

 

 

大川美術館へのアクセスは、JR両毛線「桐生駅」もしくは東武伊勢崎線「新桐生駅」が便利です。「桐生駅」の場合は、上野~小山~桐生もしくは上野~高崎~桐生でおよそ2時間(桐生駅より徒歩15分)。「新桐生駅」の場合は、東武伊勢崎線・浅草駅より赤城行き特急「りょうもう号」で100分、北千住駅より90分(新桐生駅よりタクシーで10分)です。車では都心から約2時間で到着します。詳しい行き方は館HPのアクセスマップを参照してください。

 

 


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