[通信アジア]コロナ禍とデジタル化、移動の制限のことなど:南條史生

2020年11月18日 17:00 カテゴリ:コラム

 

コロナによるパンデミックの話はもう書きたくないとは思いながら、やはりその大きな影響と変化について考えざるを得ない。

 

現在私は幾つかの海外美術館の委員をしているが、年に一度は集まっていたボードミーティングなどが、みんなズーム会議に変わってしまった。会議は時間通り始まり、すぐに議論に入る。すると、前日に飲みながら事前に翌日のアジェンダの話をしていないので、議論についていけない、という感覚が強くなる。美術館の周囲を取り巻く街や社会も見えていないから、美術館がコンテクストの中で見えてこない。

 

また海外の美術館の建設・開館に向けてコンサルティングをしているが、それも現場に行くことが出来ないので、どうも実感が湧かない。刻々と建築は進んでいるのに、実感がない。展覧会はコンセプトの話ばかりになって、作品が見えなくなっている。

 

しかしデジタル化は、コロナがなくても進んでいく方向だったろう。それはアナログなアプローチが消えてなくなることを意味しないと思う。

 

かつてエレキギターが登場してきたとき、それがアコースティックギターを駆逐するかと懸念されたが、結局は両方が残り選択肢が増える結果となった。表現の現場では、古い方法も別な価値を持つ様に見える。さらに今の状況を見てみると、デジタルとリアルの中間には様々な階層が広がり、単純な二元論で見てはならないのだと思う。

 

もう一つ、今回の変化で感じたのは、移動を制限することの意味だ。

 

日本ではそれほど厳しいものではなかったが、欧米では、罰則を伴ったかなり厳しいロックダウンなどが行われている。最近EAA(1)で話題になった哲学者G.アガンベン(2)の論考は、「死者の権利」と「移動の権利」を主張している。移動の自由は、人権の重要な部分だ。ドイツの首相メルケルは「旅行及び移動の自由が苦労して勝ち取った権利であるという私にとっては、このような制限は絶対的に必要な場合にのみ正当化されるものです。そうしたことは民主主義社会において決して軽々しく、一時的であっても決められるべきではありません。しかし、それは今命を救うために不可欠なのです。(3)」素晴らしいスピーチである。メルケルは東独出身だ。

 

こうした中でアートは変わるのか、変わらないのか。また展覧会は変わるのか、美術館は変わるのか。という問いにまだ誰も総括的に答えていない。いつか以前の世界に戻るのかなと思う反面、今回見えたウイルスの脅威は、今後消えることはないのだろう。なぜなら将来にも常に新しいウイルスが登場してくるからだ。それは人間にとって永遠の戦いであり、今回それが初めて明確に認識されたということになる。

 

数日前に落合陽一がWOWと協働して演出した、日本フィルハーモニー交響楽団の「__する音楽会」を見た。曲の選曲も秀逸だったが、藤倉大の楽曲「longing from afar」では、世界10カ国以上の国の奏者にオンラインで参加してもらい、会場の奏者と協演したのは驚きである。この曲はオンラインの協演を想定して創られているので、タイミングの遅延が生じても問題がないように作曲されているという。解説には、「コロナの時代の申し子」と表現してあった。海外の演奏者の様子がすべて背後のスクリーンに上映されていて、終わったときにはちょっとした感動が広がった。(4)

 

六本木ヒルズの10周年に提案して始まったICF (5) は、今年は11月16日から27日まで開催するが、全てズームを使ったオンラインの会議とした。人と出会えることが大きなメリットだったのだが、この時代それがかなわず、18時以降帯のようにトークセッションを連続開催する。私のセクションでは、スピーカには必ず一人は海外の識者を入れている。分断への抵抗である。最後の日には、キーノートスピーカーとしてマルクス・ガブリエルを招待した。コロナの時代に人間の社会、そして生き方はどう変わるのか、変わらないのかについて、議論する。是非ご覧いただきたい。

 

 

 

(1) 東京大学東アジア藝文書院のこと。4月22日、EAAオンラインワークショップ「感染症の哲学」を開催した。
(2) Giorgio Agamben 1942年生まれ。美学から政治哲学を論じるようになったイタリア人哲学者。
(3)コロナ時代の哲学(國分功一郎・大澤真幸)p82 line15, 2020 左右社
(4) 「__する音楽会」東京芸術劇場 10月13日(落合陽一との協働は4回目)
(5) Innovative City Forum 今年は11月16日から27日まで。

 


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