[通信アジア]コロナの時代:南條史生

2020年08月21日 14:00 カテゴリ:コラム

 

ギブスファームの自然の中に置かれたリチャード・セラの大作

ギブスファームの自然の中に置かれたリチャード・セラの大作

 

いろいろなところで、新型コロナウイルスによる変化が論じられている。アートに関しても例外ではない。いくつものオンライン対談等で、ポストコロナ、ウィズコロナ、ニューノーマルというキーワードが飛び交っている。

 

しかしこの議論は、展覧会、美術館、鑑賞態度、そしてアートそのものという項目に分けて論じなければならないだろう。

 

もしコロナウイルスに限らず、常に新しいウイルスの脅威に晒されていくのが未来だとすると、展覧会のビジネスモデルは、これまでのような大量動員を前提としたブロックバスター型展覧会はやりにくくなるだろう。それは量を追求することができないことを意味している。となると、展覧会は質を追求することが大事になるのではないか。

 

では質とは何か。ゆっくり鑑賞する、解説を聞きながら鑑賞する、何回も鑑賞する、観賞後にそれについて話すことを楽しむ、などが考えられるが、ここはもっと新しいアイデアが出てもおかしくない。ビジネスモデルとしてみたときには、入場券単価を高くする、それがやりたくなければ今までより多くの資金援助を獲得する。そうでなければより低い経費でできる展覧会を企画する(となると国際的な企画は数が減るだろう)。より多くの官・民の補助金、支援金などが必要になる。

 

一方で、デジタル技術による鑑賞など、今まで以上に多様な情報発信が考えられる。私も、森美術館で開催した「未来と芸術展」(2019年11月19日~2020年3月29日)が2月には新型コロナウイルス問題で閉鎖されたのを受けて、ネット上で会場を歩き回れる3D空間で表現し、多くの人がその内容を見て歩けるようにした。しかしこのような方法はあくまでもリアルな体験とは違う。では、他にどんな解決方法があるのかということもこれからの問題となるだろう。

 

美術館も経営的に見れば、展覧会の問題と同じ議論ができる。しかし美術館は所蔵品を持っているところが、違う。所蔵品を活用すれば、比較的手軽に展覧会が構成できる。ここにきて美術館の所蔵品の重要さが再認識されるのではないか。そして所蔵品の収集基準も今までの論理でなく、より新鮮な視点で行われる必要が出てくるのではないか。鑑賞の質を高める努力も美術館だからこそ、できることが多々あるはずである。

 

アートそのものはどう変わるだろうか。今まで以上にデジタル系アートは隆盛になるかもしれない。これは、その性質上、ネット上での配布、鑑賞に向いているからだ。落合陽一は新型コロナウイルス問題前からデジタルネーチャーという語を用いてきたが、まさに時代にハマった感がある。

 

リアルな存在としてのアートは、どうなるのか。これがなかなか予測できない。デジタル化・ネット化した社会の中で、リアルな体験としてのアート鑑賞が今よりもさらに大事にされるようになるかもしれない。一方、アートは自然の中に出ていくことも考えられる。すでに地方芸術祭ではしばしば行われていることではあるが、その必然性・重要性が増すだろう。ニュージーランドにあるギブスファームはその良い事例である。極めてパーソナルな空間で、一人、または少人数による限定された作品の鑑賞体験が重要になるかもしれない。これは蔵前の空蓮房の展覧会などが良い例だ。

 

コロナは、倫理や哲学に関わる変化をもたらした。多くの人が人生の意味を考えるようになり、資産や友情や愛について再考するようになった。また、物事の優先順位を変えた。死が目の前にあれば、何を先にやるかが変わるだろう。アートもこうしたことを反映することになるのではないだろうか。

 

いずれにしろ、ポストコロナの時代のアートについて今考えることは、美術関係者の責務であるし、それは新たな展覧会作り、鑑賞体験の創出のきっかけにしていかなければならないのではないだろうか。

 

空蓮房の極めてパーソナルな鑑賞空間(作家・向山喜章)

空蓮房の極めてパーソナルな鑑賞空間(作家・向山喜章)

 


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