[通信アジア]明日のための創造とナショナルプライド:南條史生

2015年08月28日 16:45 カテゴリ:コラム

 

最近、文科省や外務省などの会議によく出る機会がある。そのような場所で文化の振興の話になると、参加者の頭の中にある文化というのはほとんどの場合(もちろん現代美術関係者や、デザイン、建築業界などの現場の人は別だが)伝統美術、工芸、そして歌舞伎や能だ。イメージとしては、奈良、京都のお寺などが浮かんでいるに違いない。そいうときに私は、本当に戦後の教育が根本的に大きな間違いを犯してきたことを感じる。

 

つまり日本の社会は文化について断片的な知識しかなく、群盲象をなでるの状態だということである。古い文化は大事である。それを保護、保善することも大事である。しかしもう古いものは新たには作れない。古いものに依存して日本の文化だと言い続けることはできない。今われわれが作り出せるものは、新しい文化だ。美術、デザイン、建築、食など日本が強いものはたくさんある。独自性もある。中国のように高騰するマーケットにする必要はない、しっかりとした歩みで、新しい創造活動を支援していき、それが総体として今の日本の文化として見えてくればいい。さらにそのうちの良質なものが未来の文化資産になる。文化に国や行政が関与する意味があるとすれば、そのような創造活動のエコシステムが生じるように文化の制度を設計することだ。

 

総体が見えていないから、新しい日本文化の話になると、クールジャパンに収斂してしまったりする。漫画とアニメが今の日本の文化の一部だと認めることは、開かれた考え方ではある。しかし今の日本文化はそれだけではない。国際的な場面では、国のイメージは経済だけでなく、外交、文化のイメージが一体となって作られる。パブリックディプロマシー(外務省が推し進めている民間外交という概念)には、文化がおおきな鍵を握る。そのときに、アニメと漫画だけではない建築やアートや、その他もろもろの話も出てこなければ、大人の国に見えない。

 

文化は保存だけでなく、産み育てることが大事だ。新しいもの、つまり革新的なもの=イノヴェーティブなものに投資することだ。そして過去の話ではなく未来を見据えて論じることだ。なぜなら、生きていくということは待った無しだからである。緊急の課題は目の前に迫っているのだ。これからの日本のアートは何が今現象しているのか、どういう方向へ向かおうとしているのか、その時の問題とは何か、それをどのように改善できるのか、つまりわれわれは明日の日本文化の存立に何らかの貢献ができるのか?

 

こうした視点で見ると、アジアの国々の方が文化で立国することに対する包括的な認識があるように思われる。例えば台湾に数カ所できているクリエイティブ・センター(創造街区)、あるいは香港に増加した美大の数、あるいは中国、香港、韓国、台湾の大型美術館の活動、一昨年オープンした韓国国立近代・現代美術館、そして今度オープンするシンガポールの国立美術館や香港のM+のスケールの大きさ。ナショナルプライド、という言葉があるが、どの国も自国のアイデンティティーと文化を明確化しようとする意欲は強い。

 

2013年開館した韓国の近代・現代美術館の俯瞰図

2013年開館した韓国の近代・現代美術館の俯瞰図

 

フランシス・フクヤマが『歴史の終わり』(上下巻。渡部昇一訳、三笠書房刊、1992年3月)を書いた時に、最後の結論として述べていることがある。それは「重要なのは一人一人の気概である」ということだ。日本はもう一度、文化を相対的に捉え、未来を志向することが重要なのではないか。そして周囲の国に向かっても、過去の話で対立するのでなく、一緒に未来を作ろうというべきではないだろうか。

(森美術館館長)


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